生きやすくする仏教の教え…
霊的な、スピリチュアなそうとらえられがちな宗教ですが、仏教を含む宗教全般は
「土地や風土、時代に合わせてどう生きるのが楽か?」
という教えだったりします。
仏教でいわれる「悟り」
ごみ拾いを2年間、休まず続けたぼくの悟りについて思うところ…。
お釈迦様(ブッタ)
仏教の開祖である、お釈迦様は今から約2500年ほど前の、北インドに生まれた方だそうです。
とても裕福な家庭に生まれたお釈迦様。
美しい服、世話係、教師をつけ、当時としてはとてもぜいたくに暮らしていたそうです。
豊かに贅沢に暮らしていたお釈迦様ですが、ある旅の途中、「老人」「病人」「死者」「沙門(しゃもん」に出会ったそうです。
沙門とは、質素禁欲をし、厳しい修行をする人です。
「老人」「病人」「死者」を見て
「老けたくねー」
「病気いいやぁー」
「死にたくねー」
と思ったお釈迦様は、老・病・死の不安を克服した沙門に出会います。
お釈迦様の、老・病・死の不安への克服の旅を出家というらしいです。
Wikipedia参考


お釈迦様は(ぼくが思うに)、究極的に心穏やかに楽に生きたかった人です(´・ω・`)
楽な生き方
もっと欲しい…
もっと生きたい…
つらいことはしたくない…
そういった欲求に縛られず生きることが、楽な生き方ではないでしょうか?
ぜいたくな暮らしをしていたお釈迦様。
物欲も、色欲も満たされていたのかもしれません。
しかし逆に、「もっと欲しい、もっと欲しい」で苦しかったのか?
物事に飽きてしまう焦燥感に駆られて、苦しかったのか?
もっと手に入れたいと思いする努力も、実はめんどくさくて苦しいものだったのかもしれません。
(どこか豊かに生きる現代人に通づるものを感じます。)
そんな欲や焦りを克服するために出た修行。
禁欲により物欲を抑え、厳しい修行により、人生で降りかかる面倒ごとを克服しようとしたのかもしれません。
究極的に物欲を捨てようとしたお釈迦様の修行に、
「水中で息を止め、死の恐怖を克服する」
という修行があります。
しかし、なんど水中で息を止める修行をしても、お釈迦様でも死の恐怖を克服できなかったのだとか…
食を断ち、水の中で息を止める修行に疲れ切ったお釈迦様が、木の下で差し出されたおかゆを食べた時、お釈迦様は悟りにたどり着いたそうです。
おそらくその悟りは
「生きててもいいのねぇ~」
ではないでしょうか?
生物にとって切り離すことができない「生」
あるがままの「生」の欲求を受け入れることは悪くない…。
過剰に欲張らず、どうしても心がしたいと思ったことをする。
超ドSのお釈迦様から学ぶ、楽な生き方はそういうことかもしれません。
なぜかごみ拾いを続けているうちに、すこし仏教をかじったわたくし…
ごみ拾いをはじめた当初
「ポイ捨てをゼロにしよう!」
「ごみ拾いをする人を増やそう!」
とかいきって逆に過剰な欲をもち、苦しかった自分は仏教に救われた気がします。
今は毎日拾っているので、習慣を崩すと気持ちが悪いので、ごみ拾いに行く。
特に人にごみ拾いすることを求めないけど、共感したり、応援されたりすると嬉しい。
過剰に求めず、穏やかな欲求に従い、ごみ拾いをしています。(´・ω・`)ナームー

「生きやすくする仏教の教え」とごみ拾いボランティア
悟ったそこのあなた!
バナークリックおねがいします!
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